Festina Lente

帰ってきた「常日頃の思い」。題名はローマのことわざ「ゆっくり急げ」。

半分言い訳

会社に入ってから驚いたことなんて数え切れないぐらいあるけれど、その中でもちょっと面白いなと思ったのは意外とみんな英語ができないことである。

いや、こう言うと自分はできるけど…的な感じがしてしまうけどご存じの通り俺も受験英語しか素養が無い典型的な日本人。

(ちょっとは上達したんじゃないかと信じたい)

面白いのは、もちろん会社の中には達者な人も少数いるとは言え、平均的に見れば大して英語がお上手でないにも関わらず、外洋をゆく船の世界で相当な割合で長らく海外と商売しながら会社がここまで生きながらえてきたことだ。

そして、これは決して自分のとこだけではなく程度の差こそあれ業界的に当てはまる気がする。

 

それを思うと、如何に伝えるかよりも何を伝えるか、がやはり少し大事だからではないかとちょっと好意的に解釈したくなる。

考えてみれば当然だけれども、そこに利益や良いことがあると思えば多少言葉が通じなくとも聞きだそうとするのが人情で、逆に何も得られない相手とは言葉がよく通じてもそんなに一生懸命話そうとしないだろう。おしゃべりの相手としては良いにしても。

結局まずは語るべき内容、次に論理、それからが翻訳なんじゃないかと思う。

 

特に、何となく英語のできるできないの判断に使われがちな発音の良さなんて全く余計なお世話で、英語を国際的な言語として捉える立場に立つならばもっとおおらかに見るべきだし、個人的にはジャパニーズイングリッシュで突撃できる人はやっぱり格好いいなぁと思う。

もはや英国語でも米国語でもない、と思う。

あと、真面目な話をするのに必要なのは案外受験英語の知識な気がするね。横須賀で米兵の隣で飲む場合にはあまり役に立たないけど。

 

とは言え。

英語の単語や文法を覚えたからと言って語るべき内容が衰えるわけでもなく、やっぱり必要であれば言語習得に精進しなきゃいけないのも事実。

学生時代、「君はもっと言語を学ぶのが良い」と数少ない尊敬すべき先生から言われ、これだけは少しもったいなかったなーと思ってる。これは英語に限らない。

昨日書いた色々なところに行くことと同じく、違う言葉を話す人を理解することは相当に見識を広めることになるし、例えば牝牛と雄牛だとかのように違うものの分類の仕方(視点の違い)を得られることもある。

 

でも、やっぱり純粋に勉強するのはどうしても三日坊主になってしまうんだよなー。

こういう言い訳だけは年々洗練されていくというのに。